八幡総社両神社(はちまんそうじゃりょうじんじゃ)
四国八十八ヶ所霊場の第16番札所である観音寺、その境内本堂に隣接してこちらの八幡総社両神社の社殿が鎮座しています。時折、団体お遍路のツアーバスも訪れる境内ですが、基本的に観音寺の本堂と大師堂をお参りするのみで、シームレスに移動出来るのですが八幡総社両神社の方へは興味のアンテナに引っ掛かった人が流れて来るくらい。こちらを目的にしている人は、さして多くない印象を毎度受けています。大日本名所図録:徳島県之部を見たところ、明治37年4月の様子として、今の社殿の場所には八幡宮とだけ記された社殿が載っているので、当時は観音寺の鎮守社としての立ち位置だったのでしょうか。現在は鳥居、社殿共に扁額が、「八幡大神宮・惣社大御神」となっています。神社で手を合わせる隣で読経の声が聞こえる光景は、ある意味で神仏習合の名残と言えなくもないかもしれません。
◆神社概要
神社名称 | 八幡総社両神社(はちまんそうじゃりょうじんじゃ) |
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通称・旧称 | 八幡総社両神社 |
御祭神 | 八幡神社:応神天皇(おうじんてんのう) 総社:阿波国式内社五十座 |
鎮座地住所 | 徳島県徳島市国府町観音寺49番地 |
公式サイト | - |
◆由緒、縁起
●境内の案内碑より(八幡総社両神社)阿波国の総社として、阿波国府の所在地に設けられた神社。
国司の重要な仕事の一つに、管内の官社及び国司の崇敬する神社を祭祀することがあり、奈良時代、国司はこれらの神社に幣を奉り、これに詣ずるを例としたが、平安時代中期以降、中央政治の乱れにより、地方行政も弛緩し、祭祀も規定通りに行われなくなり、従来国司の祭祀してきた管内諸神社の神霊を国府(国司庁)に近いところに勧請し、参拝の便をはかったのが総社の起源である。
当社はその総社と、近在の八幡神社を合祀したもので、安政3年(1856年)再建の棟札を存する。「寛保改神社帳」には「観音寺村惣社大明神」「観音寺村 八幡宮」とある。なお、南方500メートルほど離れた所に、面積約3,000坪に及ぶと言われる当社の旧社地があったとされ、「総社が原」の呼称が現在に伝わっている。
主祭神
(八幡神社)応神天皇
(総社)阿波国式内社五十座
阿波国の式内社は大麻比古神社を始め五十座四十六社あり、国府町中では大御和神社(府中の宮)、八倉比売神社などが式内社である。
平成二十一年十月吉日
八幡総社両神社氏子中
夢・ロマンの町国府協議会
◆特記事項
創建年 | ?年 |
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社紋 | 村 |
旧社格 | 村社 |
年中行事 | 10月18日 例祭 |
霊場札所 | - |
境内社 | - |
◆御朱印
●八幡総社両神社の御朱印◆その他、雑感
・2017年10月記八幡総社両神社の御朱印をいただいたのは、日付にもある通り平成23年のこと。ですがそれよりも前に、お遍路で四国八十八ヶ所霊場を巡拝した際にお参りはしているので、二度目の参拝で御朱印をいただいたと言えるでしょうか。もっとも、こちらは社務所なんかはありませんので、社殿に貼られて案内されていた宮司さん宅へ連絡して郵送という形で御朱印をいただきました。兼業宮司さんとのこと、全国規模で見ると神社の数に対して神職の数が足りないという現実を、こちらでも知ることになりました。お忙しい中で対応していただき感謝です。丁寧な手紙も同封していただきました。
境内にも上述以上の案内碑がなく、例祭とかはどうなっているのか、正直なところなんともわかりません。栄枯盛衰はなんともでしょうから、その辺は外野がなんやかんや言えもしないでしょう。四国霊場札所の観音寺の境内に鎮座しているので、そこそこ人は流れてくるようで。もっとも、バスツアーなどの団体お遍路は、基本的に札所以外興味のない人が多いようで、ザッと写真を撮ったらお仕舞いって感じ。
阿波国の総社は、こちらと府中にある大御和神社とでどっちだ?という話がありますけれど、府中の宮と呼ばれる大御和神社の方が規模としては大きいわけで。加えて上述の通り、古い書籍には単に八幡宮とのみ記されているのでさてはて。その辺のことは、結局シロウトだと答えは出ないのかなとも思いますし、求めても正解が見出せないとも思いますし、あれこれと思い耽ることこそまた楽しいものじゃないかな、とね。
◆境内写真
●八幡総社両神社の社殿。●八幡総社両神社の社殿。
●社殿の扁額。
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